几帳面な子に適当な絵の描き方を教える
几帳面な人が描く、ざっくりとした絵、がこれだ。
小学三年生の息子の絵日記。以前に書いた、運動会のもの。
よく絵日記が書けず、家へ宿題として持ち帰ってくる。「人がたくさんで描けない」と言うのだ。そして寝転ぶ。現実逃避。
なぜ、描けない、と感じるのか。絵日記の絵とは、略画だ。完成された絵画ではなく「大まかな絵」を描くもの。
人間には、物事の、全体に注目しがちな多数派タイプと、細部に注目しがちな少数派タイプがいる。細部に目が行く人にとって「大まか」は難しい。頭の中で、写真のような緻密な絵が出来上がっていないだろうか。それだと気が遠くなる。それを、頭の中で「略画」に落とし込む作業が必要なんだ。線画にしたり、ズームしたり。大多数の人が自然にやっていることだ。
「そうそう、そうなんだよ。」
と息子が飛び起きて、何度も大きく、大きくうなずいた。
運動会にいた、人々。具体的に誰がどこにいたか、何色の靴だったかは、自分以外、覚えていないね。誰のお母さんがどこで見ていたかも、分からない。記憶っていうのは、鮮明なようで曖昧。それをどう表現するか。もう一つのヒント、自分の視界に、自分は居なかったね。みんなよく描く、自分が入り込んだ絵は、記憶ではなく、想像の世界。
「わかったよ。」
と意気揚々と描き始めた息子。そして、あっという間に出来上がった絵。二場面に区切り、遠くの保護者は黒い影。自分の服など覚えているところだけ色を塗る。自分の後ろ姿は、よく襟足が長いと言われるから、そのように描く。ぼくが、走った、踊った、という「何をしたか」を明確に説明する絵になっていると思う。
続けて音楽会の絵を描いた。全員息子に似てるような。まあ、それでいい。自分の服しか覚えていないのだから、自分だけを鮮明に描く。全体の並び順まで印象にはないし、人数も紙に収まるだけでいい。ぼくたちが、歌った、それだけが表現されていればいい。丁寧に同じ人をコピペして、人と人の手の重なりまで配慮されているあたりが、息子なりの「大雑把」なのだ。描くことを最低限に楽しんでいる絵とも言えるだろう。
「もっと適当でいいから」は、大雑把な人の言い分。世の中の一部にいる、方法論が違う人。仕事の取り組み方も、家事効率も、同じこと。