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小学校の運動会、多様性とスポーツの意義

 

10月下旬、小学校と保育園の運動会が同じ日の予定で、小学校だけが雨天順延して、どちらも見に行けた。

二年生の息子が、徒競走で1位になった。ゴール直前で、ええっ、っていう顔で振り返って、そしてニヤリ。私は、よかったね、と言いつつ、予選があったよね、と声をかけた。隣の走者は女子。

小学校は、どの競技も男女混合。徒競走は、予選があり、タイムの近い同士で走る。予選より本番で頑張ることで、1位が取れる。スポーツ万能の子が、トップのグループでビリになったりもする。女子が総合トップを取るチャンスは、まず無い。

小学生だと男女差は少ないにしても、スポーツとは本来、男女差を競い合うものではない。今の運動会を見る限り、男女平等に出場しているというより、男子の優位性を確認する会になっている。スポーツの得意な子、頑張って練習した子が、輝いてこそ、みんなが頑張れるし、明日への活力が湧く。それがスポーツの意義だ。出来ない子は悔しがって、次は頑張るのか、それか別のことを頑張るのか。

車椅子の子も、歩ける子向けのダンスを踊っていた。みんなで輪になって歩くと輪から外れてしまう。支援の先生が車椅子を押す。どうしても目立つ。

出来るはずのないことを当たり前にやらされるのは惨めだ。そのことに慣れてしまってほしくない。車椅子だってダンスは出来るし、支援がなくても自分で出来る。車椅子のお子さんは、輪の中心にいればいい。そうすれば輪から外れないのだ。旗を振っていればいい。自分に出来ること、みんなのために自分を生かすことを、自発的に提案できる子であって欲しい。ただ、まだ小学生なので、周囲の大人たちが、歩けるのが当たり前、という枠を当てはめることなく、このお子さんに出来ることを生かして欲しい。どうしても目立つ。そのことがむしろ特権であって欲しい。

大人になれば、人はお互いに自分の得意なこと、自分に出来ることをして、人のために働くことで支えあって生きていく。だから、この集団の中で自分が何が得意で何が苦手か、うやむやにせず認識することは大事だ。みんな同じ、みんな平等、と思っているうちは、支え合えない。

スポーツの本質を逸脱しているものの、大いに盛り上がって、楽しそうだった。息子はワイワイ応援したりする方じゃないけれど、終始ニコニコと、男子同士よくふざけ合って、隣の女子とよく話して、終わってから、赤組負けた、って本気で残念がっていた。

息子は、顔立ちが変わっているから、比較的見つけやすいんだけど、一学年4か5クラス、児童数が多くてよく見失う。それを下の子と走り回って一緒に見つけるのがまた面白かった。「二年生だから小さい方だよ。赤組、小さくて丸い顔。後ろ髪長い。足細い。」って言いながら。