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ジィジは星になったの?

 

義父に半年の余命宣告。
それからというもの、義父は輪廻転生や生き方に関する本を読んでは、会うたびに嬉しそうに私に話すようになった。

ありがたい。
私は、病気のことなど分からないし、考えたこともない。身近な人を亡くす経験もない。今後もないだろう。たいして身近な人もいない。そんな私に、確信を持って、命にまつわる話をして下さるのだ。

書道家でもある義父は、自分の葬儀のために、書をしたためた。義母に長い恋文も書いた。
そんな義父の精神性には及ばないが、私も義父に長いメールを書いた。家族のことについて。何よりも、存在してくださったことへの感謝。
人というのは、存在しているだけで素晴らしい。子供たちの起源でもある。
6才の息子も、ジィジに手紙を書いた。

あと少しで、娘は4才。願わくば、息子の入学も、祝って欲しかった。
何度も新幹線で会いに行ったジィジ。3才までの思い出を、娘はどこまで覚えているだろう。こんなにも当たり前に、親しみをもって心の中に存在しているジィジが、消えてしまうのだろうか。写真の人になってしまうのだろうか。

誰にでも死は訪れる一方で、自分とは、永遠に生きる存在だ。生きている、その瞬間が最期まで無限に続くものであって、命が宿った瞬間を知らないのと同じように、死も訪れない。死んだ経験のある人は一人もいない。生まれる前のことは誰も分からない。輪廻転生があるかどうかは別として、死んだら、生まれる前と同じ、無へ戻る。死んだら楽になったりもしない。最後まで苦しんでいる、その瞬間が永遠に続くか、それとも、苦しいときほど、夢を描き続けて生きるか。

自分自身の死は永遠に訪れないのだから、死を恐れる必要はない。なのに、自分が消滅するというのは恐ろしいことだ。死は、周りの人に訪れる。それは肉体が停止した瞬間から、日々少しずつ、失っていく。いなくなって、持ち物がほんの少しずつ整理され、いない生活に変わっていく。少しずつ、思い出さずに生活するようになる。
子供たちの心の中のジィジが長生きするように、何度も星を見上げる。

以前、義父の部屋に貼ってあった、「書が好き 歌が好き 酒が好き この人生が好き」という言葉。どんな時でも、自分の人生が好きでありたい。