子供にも美意識とプライド
人間は著しく不平等だ。
人生の難易度というのは、ほとんどが人それぞれ生まれ持ったもの。
息子が生まれた時、生きづらい子が生まれた、と思った。
私は、息子の生い立ちを、全部書きたいと思った。
本人に伝えたいことと、世の中に表現したいことと、両方だ。
下の子は、そこまでの困難はないと感じた。
そして、その直感を大切にし、
二人を同じだけ大切に育てようと思った。
幼い頃に心労を経験させて、強くたくましく育てる、
という考えは、私には無い。
「苦労」と「心労」は異なり、
「心労」の多い子は、自分の価値が低く、逆境に弱い。
「苦労」を取り除こうとは思わない。
どんな逆境にあっても、自分を大切に思えるか、
大切な人を大切にできるか、
それが生きる力だ。
息子は人前では泣かない。
そのように育てたわけではなく、
生後3か月頃にすでに、電車に乗ると泣き止み、
周囲の人に笑顔をふりまき、話しかけられると
「アー、アー」と小さく返事をする子だった。
家では激しく泣くので、良いかと思う。
でも最近、自分の身の回りのことがさっと出来なくなり、
自分でやる、ということにも、こだわらなくなってきた。
そして、いつまでもだらんと寝転んでにやけているのだ。
そして呼べば呼ぶほど現実逃避して、おもちゃに没頭する。
何をするにも、ものすごく時間がかかるようになった。
良い子は疲れる。悪い子には理由がある。
子供は基本的に親に認められたいと思うものであり、
親に従えない時、親を苦しめようなどとは思っていない。
ただ分かってほしいと、救ってほしいと思っているものだ。
保育園でも、すべての集団行動が一番最後になるようだ。
最後に靴を履いて散歩に行き、最後に靴を脱いで教室に入り、
最後に手を洗って席に着く。ニコニコする。
最後に給食を食べ終わる。半分は食べ残す。
家に帰ってくると、小さな下の子と手を洗う順位を争って、
「しゅんくんが一番!りんちゃんは二番!」と泣く。
よほど保育園で悔しい思いをして帰ってきたのだろう。
悔しいことを悟られたくもなくて、笑っていたのだろう。
人前ではいつも美しい自分でありたいのだろう。
黙っていれば、のんびり屋でやる気の無い子だと誤解される。
でも本当の息子は、そうではない。
せっかちで気が短く、努力家で完璧主義だ。
思考と行動が連動しにくい体質で、行動がゆっくりめになり、
催促されると、気持ちが空回りしてどんどん遅くなるのだ。
そして、もう催促されていないのに、焦る。
どうにも動けなくなり、固まる。自己嫌悪。
そして、そういう自分を人に見せたくない。
次の日もまた保育園に行きたがらず、
玄関に寝転んでにやけている。
自分では靴を履かない。「ママが。」と言いながら、
本当は自分でやりたいと思っている。
いちいち叱ったり催促したりすると、
「急いでるって!」と泣いてパニックし、
一日のスタートでつまずくことになるので、
今日帰ってきたら何のビデオを見ようか、とか、
ミニカーを一つ玄関で待たせておこうか、とか、
話をして、飛び上がって喜んだところで、出発。
途中、タンポポを摘んで行く。
それをさせた方が、早く行ける。
急いでいるのは、しつけでもあり、大人の都合でもある。
息子は最近になってようやく、抱っこギューを嫌がらなくなったので、
行動が遅い時は、まず膝に乗せ、次の行動を楽しく予測させ、
よしっ、と膝から降ろす。うまくいった時は、
息子は大喜びで、大急ぎで行動するのだ。
私は少しずつ、朝の支度に手を貸す。
親が手を貸すから、自分で行動できない子になっている、と
思われるだろうな、と思う。
でも、人には目に見えない、たくさんのつまづきがあって、
多くの人が当たり前に出来ていることが出来なかったりする。
出来る日と出来ない日があったりすることもある。
しつけ不足や怠慢ではない。
人は想像を超えて多種多様で、頑張って出来ることと、
そうでないことがある。
少なくとも幼いうちは、目に見えないことに気づいてやりたい。
人と違っても大丈夫だと安心させ、
そのプライドを守ってやりたいと、私は思う。