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Sくんのお引っ越し

 

「ほいくえん、いかないよ。」と息子が泣いた。
どうして行きたくないの、と聞くと、
「Sくんいないよ。」と言う。
もうSくんが引っ越して1か月も経った日のこと。

知らなかった。
たった2才の子が、クラスメイトがいなくなったことに、
1か月も苦しむとは。黙って耐えて、1か月後にようやく泣いた。
2才の記憶なんて、全部忘れてしまうようなものだから、
友達のことなんか、1か月も経てば思い出さなくなり、
いずれ忘れてしまうだろうと、そう思っていた。

去年の春に入園して以来、Sくんとはずっと一緒に過ごしてきた。
Sくんは息子と月齢も近く、体格も同じくらい大柄で、
まるでクラスの2トップだった。今は周りの子も成長しているが。
よく二人で廊下をドタバタと走り回って先生に怒られた。
息子の激しい遊び方に対応できる唯一の子だったと思う。
いつも愛想良く、優しい笑顔の、賢そうな子だ。
Sくんが怒るのを見たことがない。

保育園で散歩に出かける時、息子はいつもSくんと手をつなぐと言った。
Sくんが風邪を引いて休むたびに、先生に「Sくんは?」と聞いていたようだ。
Sくんも、息子と同じ、新幹線の靴下を履いていた。

1月に突然、Sくんが九州へ引っ越すことになった。
私は息子の手を引いて、子供用品店へ、餞別を買いに行った。
はやぶさ新幹線と中央線が、パタパタ変身するおもちゃを買った。
これなら道中、手元が寂しくないだろうと思った。

最後の日の朝、息子はSくんに「はいどーぞ、はやぶさだよ」と
ニコニコして餞別を渡した。
Sくんはそれを黙って受け取り、お母さんに渡した。
息子は、「Sくん遠くいく、はやぶさ・・・」とつぶやいていた。

夕方、いつもどおりに教室を出て帰宅しようとする息子に、
Sくんに別れを言うように伝えた。
すると息子は、教室の柵扉の外から大きな声で、
「Sくん!」と笑顔いっぱいで叫んだ。
Sくんは走って来て、二人はしばらく手を握り合っていた。
息子は笑顔、Sくんはいつもと違って眉をひそめていた。
そしてSくんは少し寂しそうに、また教室の奥へ戻っていった。

普段なかなか友達に声をかけられない息子が、
こんなにもすんなりと友達を大声で呼び止めたことに私は驚いた。
活発で我が強いものの、人が自分を受け入れてくれているかどうか、
気にして臆病になるところがあるのだ。
すぐに「ダメ」「やめて」を言う子に対しては、少し緊張する。
だからこそ、優しいSくんにだけは必ず受け入れてもらえると、
絶対の安心感があったのだろう。

Sくんが保育園に来なくなった翌日から突然、
息子の奇行が始まった。保育園の帰りに、
エレベーターのボタンを「じぶんでやるーっ。」と大泣きし、
スーパーで勝手に「リンゴかうの。」とリンゴを手にして、
買わないと言うと大泣き、コンビニでお菓子を握りしめているので、
元に戻すように言うと座り込んで大泣きで、泣いたからといって買わないのだが、
近所の人にも、しゅんくんが泣いてるなんて珍しいねえ、と声をかけられ、
それでも泣いていた。
家に帰ると冷蔵庫にリンゴがあったので、
急に私にまとわりついてキャハーッと言って、
そしてまた何かと「じぶんでやるーっ。」と叫んではなかなかやらず、
私がやってしまうとひっくり返って大泣きし、
かと思うと急に機嫌が良くなって、
食卓のイスとベビー用の大きなチェアを持ち上げてひっくり返し、
興奮して絶叫し、それを見て「コテンなっちゃったよ。」とまた大笑い。

異常に潔癖にもなり、食事中に何度も何度も
「ティッシュとって。ここびちょびちょだよ。」と手を拭いて口を拭いて、
使用済みのティッシュを使うことも嫌がる。
珍しく夜中に大泣きして起きることも出てきた。
私は、息子が泣こうがわめこうが面白く見ているが、
外で手をつながず私から見えないところに隠れたがるのは困る。
毎日泣いて座り込んだり、ふざけて道路に寝転んだりで前に進まず、
徒歩3分の保育園から帰るのに1時間かかる。
寒い中、下の子が風邪を引いた。

1か月経った帰り道、息子がおもむろに
「Sくんいないよ。遠くいっちゃう。」とぼんやりとつぶやいた。
そして透明な目で私をじっと見て、「Sくん探しいくよ。」と小さな声で言ったのだ。

次の朝、家の前で「ほいくえん、いかないよ。」と言って大泣きした。
理由を聞くと、「Sくんいないよ。」と言う。
最近の息子の奇行の原因はSくんだったのだ。
保育園では、いろんな子と遊ぶようになっていると先生に言われたが、
Sくんが来なくなって、自分の居場所を見つけられないでいるのだ。
そのことを人に悟られるのさえ嫌で、明るく振る舞っているのだ。

その1か月後、友達のお母さんに突然、
「これSくんのだよ。」と自分の靴下を見せた。
Sくんとお揃いだと言いたいのだ。

それからさらに1か月後、
私はSくんのお兄ちゃんの入学式の写真を、SNS上で見つけた。
息子は、「あっ、」と言った後、にんまりと黙って写真を眺めていた。
背の高いお兄ちゃんの周りに、笑顔の家族。Sくんも元気に手を広げていた。
Sくんは、この街のこと、友達のこと、どれだけ覚えているだろうか。

2才の子供にも、こんなにも強い思いがある。
Sくんは息子に自信をくれた人だ。忘れてはならない存在なのだ。
息子がSくんのことを思う時はいつも、最高の笑顔だ。