人に頼ること、助けを求めること
母子で餓えかけたことがある。
人に言われてどうしようもなかったのは、「誰かに頼ってね」「助けを求めてね」「手を抜いてね」。
声をかけてもらえることは、ありがたい。ただ、本当に困っている人は、助けを求めることの出来ない状況にある人だ。
本人の性格の問題ではない。一つは、助ける側の「誰か」が周りにいないと、助けを求めようがない。もう一つは、何を困っているのか明確に言えるのなら、困っていないのだ。
「助けてくれる誰か」がいないままに、漠然と声を上げると、集まってくるのは弱者好きの、心を病んだ人々。困っている人を見ると、上から目線になる人々だ。良識ある友人は、たえず気にかけつつ、黙って遠くから見守ってくれていて、機会あれば顔を見せてくれる。積極的に「救いたい」などと言ってくる知人とは、申し訳ないが距離を置かせてもらう。みんな冷たくて誰も助けてくれない、などとは思ったことがない。
今思えば、お金に困っていないのに、食べることに困っていた。
役所の、何としても支援を受けさせまいとする姿勢が、残念だった。人生でこんなにも裏切られたことは前にも後にもない。手厚いような役所の広告。一人一人は優しいが、支援はやっていない。それに、引っ越して3か月かけて朝から晩まで休むことなく、200枚くらいの住所氏名変更の書類を、役所以外も含めて書き、週に1回は何らかの面談を受けた。最後に受けたのは就職の面接1回。
膨大なやることリスト。幼児二人の世話。ときどき朦朧とし、気がつけば食事の時間を過ぎ、寝る時間を過ぎている、という日々。コンビニ弁当でも手抜きでもいいから、とかそういう話ではなく、食べる余裕がなかったり、食べること自体を忘れてしまったり、計画的に過ごせず生活リズムが狂ってしまったり。
なのに、人から心配されると、なぜか心配されていること自体おかしな感覚。困っているというより、常に以前よりはずっと良くなっているという感覚なのだ。助けてほしいと思わないというか、これを手伝って欲しいです、と言ったら手伝ってくれる人はたくさんいると思うけれど、それが言えるのなら困っていない。何を手伝ってもらったらいいか考えられないし、解決しようとか、解決できるとかいう発想にさえも至らないのが渦中の感覚なのだ。
母子家庭だから貧困と考えるのは安直だ。自己責任と考えるのはなおさら。
すべての人が、最低限の人間としての尊厳を保って生きているか。母子家庭に限らず、日々の生活に笑顔はあるのか、助け合えているか、背負っていないか、孤独でないか、自分の能力を生かせているか。
私が必要としていたのは、お金や物資を恵んでもらうことでも、家事を手伝ってもらうことでもなかった。友人たちと顔を合わせて笑い合うこと、仕事で活躍できるチャンスがあること、子供に支援があること、それだけだ。
未来が不安だったことなんて、今までに一度もないのだけど、この感覚が、人には伝わらないだろうと、いつも思う。あまりに矛盾していて、病んでいる、と思われるんだろうな。自分では、価値観が違うだけだと思うし、自分が率先して経験して、世の中に役立てたいと思っている。
求ム、一緒に世の中を良くしていける人。