尊敬する友達に恵まれていることが最高の財産
引っ越して3年。私の誕生日の翌日に引っ越した。たまたま子供の運動会と誕生会の後の月末が、都合良く転園できた。
でも、それからというもの、誕生日よりも、ああ3年か、という方が感慨深く、嬉しいなあ。
私の誕生日には、娘の好きなアイスケーキを買って、予想どおり、私がほとんど食べた。
Facebookで友人たちからのメッセージ。毎年、誕生日のたびに、友達に恵まれているなあと思う。一人、一人、尊敬する友人。Facebookの友達リストが最高にパワフルなことになっている。内心、私なんか手も届かないんじゃないか、と思うような魅力ある方々の集合体だ。友達でありながら。
にもかかわらず、自分にとって親しい人というのは、一人もいない気がしている。そんなことを言ったら、多くの友人からお叱りを受けそうだな、とも思うんだけど。友達がいないわけではなくて、目の前に友達がいない時に、心の中で親しみの感覚を持ちにくい。
昔から、助けを求めてね、頼ってね、抱え込まないでね、っていろんな人に言われて、何だか違和感を感じていた。実際に助けを求めると、寄って来るのは、弱者に目をかけることで自分を満たしたい人たちだ。共通して「救う」という言葉を使う。そして、私が成功することを許さない。
私はその人たち、というか、誰にでもそういう一面はあるが、哀れだと思う。私のことを不幸のどん底にいると思っているのだから。人は鏡。谷底を覗いても、そこにいるのは私ではないよ、と毎度思う。私は、やりたいことは全部やる。それが、痛い人に見える時があるらしい。
私が離婚したと聞いて、私のことをポジティブに気にかけてくれている友達はどうかというと、もう一度独身になったことを、いいね、って言ってくれて、適切な距離があって、会えば最高に話がはずむ。Facebookで私の投稿をたまに見てくれたりする。友達の心の中にさりげなく当たり前に私がいる。そして、私が困っていると距離が開いて、私が幸せそうだと寄ってくる。
人生には本当にどうしようもなく困難な時があって、そういう時は自分で解決するしかないと思っている。それは不幸ではなくて成長だ。友達は、何もしてあげられなくてごめんね、って言ってくれるけど、気にかけてくれていることが、いちばん嬉しい。
長年オンラインでしか繋がっていない旧友に片っ端から会うのが、今の夢。私の最高の財産であり、リアルで会いたいが、手付かずのまま。お会いできる日程を具体的に連絡いただけたら嬉しい。
もっと仕事がしたい、とずっと思っているが、結局のところ、育児が一番面白いんだなあ。人間、全部にエネルギーを注げないもので、二番目以降にやりたいことは、手付かずのまま。今度こそ新しい仕事を、と思う。